あれから10年 時間が経つのが早すぎる

先日あれから1年というブログを書いたが、2日経たずして今日はあれから10年というタイトルを書くことになった。あの大震災が起きて今日がちょうど10年早すぎる。 コロナもあれから10年なんてことを書くのだろうか?今から10年ってどうなってるんだろうなんて思うけど、震災から10年たっても、ちょっとだけ色々便利になったけどほぼテクノロジーは何も変わっていないと思う。ある意味停滞の10年だ。 

停滞してないのは復興東北の活気だが、今でも傷は残っている。当時東京にて地震を迎えて、これはヤバイと思ったものだが、妹が気仙沼に住んでることもあり、色々大変だった記憶が蘇る。 

そして東北道が一時復旧して、すぐに気仙沼に行った時の写真を見直してみよう。

東京埼玉から未だ停電で水もガスも修復されていない気仙沼に向けて、発電機やら食事やら必要な物資を持って出発した。たまたま放射線測定器を持っていたので、福島原発の近くを通ることもあり、途中測りながら向かうことにした。 この頃ガソリンを関東圏で購入するのは難しく、長距離600km近い移動になるので、燃費には要注意だ。 メルトダウンして、マスコミはやんやうるさかった中スタート時は0.3マイクロシーベルト程度で、北に向かうほど上がっていく、郡山付近0.6マイクロになり、国見SAでは最大の3.3マイクロシーベルトを記録、でもここは避難区域でもないので、普通に営業しており、美味しいパンも買えてコロナの宣言時よりはいつもと変わらない感じだ。まあ放射線量は通常生活できるレベルで心配もない。 それでも道路見ると、ガソリンを運ぶ車が多くみれたり うねりがあったりと何時もとは違う感じもする。 途中ガソリンスタンドによるが、関東みたいに大行列という事もなく普通に購入できた。 しかし場所によっては行列もあり、大方田舎のサービスエリアでは手に入りやすく、街に近いサービスエリアは行列のようだった。 

テレビでは、避難だ被曝だの爆発なんだの言ってる割には放射線も少なく、騒ぎ立てるほどのことではない感じだが、距離ではなく、方向性が重要で、原発から北西方面の一部の量が多かった記憶だ。 高速では地震に伴う道路の破損やうねりも見受けられるが、通常速走行には問題はない。地震後は記憶では2週間くらいは通行止めだったと思う。高速を降りると一関では途中崩壊している家もあるが、大地震があったとは思えない雰囲気で、内陸部では大きな変化がない感じだ。 

一関から気仙沼に向かう街道は至って変化なし。しかしトンネルを抜けると雰囲気は一変して、悪臭が漂っていた。そして峠を下るとそこには今まで見たことの無いような景色とさらなる異臭が漂っていた。 現地を見るとこれが亡くなった方の腐敗臭か魚の腐敗臭か分からず恐ろしい。 

幸運にも家族も家も無事だったが、海抜15m以下はほぼ全滅。高台の家の近くにも漁船が押し寄せて、家から見る景色が一変し、建物が流されたために、遮るものがなく、遠く海が広がっていた。津波の威力を目の当たりにした。 

 

改めて見てみると数十センチの高さの差で生死を分けており、これも結果的には運命だが、その差が激しい。それにしても津波は膨大なパワーであることがわかる。自然の力は凄まじい。無事の確認をして、物資を届けたので、一関の温泉に泊まることとしたが、温泉は通常営業でありコロナより便利がよかった。止まって驚いたのは余震が凄く、1時間起きに震度2−4程度の地震があって、いつ大きな地震になるかと警戒して熟睡出来なかったことを覚えている。温泉はかなり濁っていて不気味だ。当時住民たちはこの不安を抱えながら1ヶ月以上過ごしたと思うと、頭が下がる思いだ。 

次の日仕事もあるので長居もできなく帰宅することにしたが、途中原発の近くまで行ってみる事とした。地震で歪んだ高速を走り、規制線技ギリギリで行ける所の限界福島県 四倉港まで移動。 

見た目なんの変哲もなく道路も綺麗だが、人気が全く無く不気味な市街を抜け海が見えるところまで行くと、津波の被害が見て取れる。少し入ると高台で、高台の住宅はなんの損傷もないが、住民が避難しており無音で不気味正にゴーストタウンだった。人がいないというのはある意味怖い。気になって放射線量測ってみると1.8マイクロシーベルト程度で安全レベルで普通に生活できるレベルだったが、国が定めた馬鹿な規定半径15km以内は立ち入り禁止とか30km圏内は避難とかそういう科学的根拠のない非難お陰で、多くの住民が不安と不便さを強いられていた。これは正にコロナの状況と同じで根拠ない自粛や巣篭もりを強制している現在と全く同じだ。この科学的根拠なき規制のおかげで、実は風下にいた半径15km以上に避難した人たちの多くが被曝をしたという人災であるが国は一切保障していない。ちなみに原発付近ではこういった被害を想定して、SPEEDIという風速 風向監視システムを導入して、運用していたが、なんと全く利用されなかったというお粗末ぶりには言葉も出ない。ちなみに 地震警報も当時携帯に送るようなシステムが運用されていたが、3.11の時は一切警報が出なかったた。そういえばせんんじつ静岡で津波警報のテストで煩かったがこれも実際にはならないと思うと馬鹿らしい。コロナの接触アプリもお粗末だが、多くの資金を使って作ってお置いて、全く利用しない、もしくは機能しないと言うからもう政府も国も終わってると思う。まあ使えないマスクを配った段階で、言わずもがなだ。 そんなだからコロナも何も信じれないのだ。使えないアプリを信じてコロナになった人もいるだろうから、恐ろしい。3.11の時も同様、国の指示に従って、距離は離れているが、放射能が多い風下に逃げた為に多く被爆して亡くなった方も多い。完全に人災だし、殺人に等しい。 最低だ。 そんな全く頼りなく信頼感ゼロの言うことを多くの人は聞くんだから全くもってわからないものだ。 

そういえば、あの時もコロナと同じで100mでも離れれば普通に食堂もやってるし、放射能汚染で怖いが、地物の焼き魚定食も食べられるというお粗末ぶり。8時以前ならお酒飲んで騒いでも良い今と同じだ。ここはちょうど風上に当たるので、東北道の国見サービスエリアよりよっぽども近いが数値は半分以下を示している。 

こうやって10年経ってみると、ダメなことは今も以前も変わらないが、被災地はほぼ復興して復興税による復興費により街は新しくなって、今や被災の後も残しているところだけで、ほぼわからないのが現状だし、むしろ綺麗に近代的になっているくらいだから時間はすごい。 コロナ後も10年経ってあんな頃もあったね!なんて微かに思い出せるくらいなら良いが、10年後も密は禁止、マスク推奨、自粛生活推奨なんて言ってそうだから怖い。なにしろ今でもテロの警戒に注意しましょうなんて車内放送が流れる始末だし。どんどん不便で規制が増えて、気がつけば日本は社会主義化してくのではと心配になる。コロナも東北の復興と同じで、コロナ税とか徴収して、国はその金を全て株に投資して、10年後日経平均株価が10万円とかなっていてもおかしくない。 復興同様一部の人がコロナで株価が10万円になってよかったね。なんてことが実際に起きそうと思えるんだから何が真実かわからないものだ。  

投稿者: TOMKURU

いい歳をしてバイクに乗ってるおじさんライダーです。海外のバイクが大好き。峠を走って一休みで缶コーヒ飲むのが大好き。

あれから10年 時間が経つのが早すぎる」への1件のフィードバック

  1. 10年…早すぎです。感覚的には3〜5年くらいですね。

    あのとき、震災直後に気仙沼へ行っていたのですね…

    それにしても、

    “たまたま放射線測定器を持っていたので”

    って…

    とてもトムクルさんらしいですw

    ふつうの人は、“たまたま” 持ってないと思いますww

    いいね

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